漁師になって、緑の真珠で暮らす 〜身の丈にあった大島の生活〜

漁師になって、緑の真珠で暮らす 〜身の丈にあった大島の生活〜

「海はいのちのみなもと  波はいのちのかがやき  大島よ  永遠に  緑の真珠であれ」

詩人・水上不二は、故郷の気仙沼大島をこよなく愛しました。

大島は、宮城県北東部の気仙沼湾に位置する東北最大の島です。海岸線は入り組み、龍舞崎、十八鳴浜(くぐなりはま)など、美しい景観が地元でも愛されています。これまで島へは連絡船で渡っていましたが、201947日に島民の念願だった「気仙沼大島大橋(鶴亀大橋)」が開通。本土と大島間の大島瀬戸を橋上から眺めると、海に浮かぶたくさんの筏(イカダ)が見えます。

伸び代だらけの漁業の「働き方改革」

筏の正体は、牡蠣養殖の筏。気仙沼大島の亀山という漁師3軒のみの浜で、牡蠣のオーナー制度に取り組み、顔が見えるお付き合いに努めているのは、ヤマヨ水産の小松武さん(45)。この牡蠣のオーナー制度には、「牡蠣オーナー増やし隊」という熱烈なファンもつくほどです。

小松さんは、関東の大学を卒業後、建設業に勤めていましたが、家庭の事情で30歳の時に大島に戻ってきました。「ひょんなきっかけで戻ってきたけど、牡蠣養殖をやってみたら、サラリーマン時代と比較しても悪くなかった」と言います。今はすっかりリピーターのついた<オーナー制度>開始の準備を初めていた矢先に東日本大震災が発生。家もイカダも失ってしまいます。再開までの決断に1年をかけて出した結論。

「ここで仕事がしたい。牡蠣をやりたい!」

「家も漁場も無くなったけど、借金をしてもこっちの方がいいなって思えるぐらい、漁業は伸び代だらけだと感じました。でも、稼ぎたいだけ稼ぐっていうのを目指すんじゃなくて、稼いだ分ぐらいで生活する。それを根っこに持っていないと、豊かな自然環境で暮らしてるのにもったいない。『暗くなったら、寝る』ぐらいのおおらかな覚悟は必要かも」

子どもの頃の家業では、わかめ、昆布、ホタテ、牡蠣など、幅広く海産物を扱っていました。出荷がないときには、それぞれの仕込みだったり、中間育成だったりと、1年間休みなしだったそうです。夜11時半に起きて仕事を始めていた親を見て、小松さんは子ども心に「そんなのじゃ続かない」と感じていました。

今では、従業員は基本的に5時仕事開始でお昼12時まで。タネの仕込みや筏の交換などの時期には7時から15時まで。水揚げなど作業も多い小松さん自身も、「できればみんなと同じスタートで同じ時間に終了できるように」と考えています。

「働き方改革って言われているけど、ここの環境でもっと働きたい、この仕事を続けたいと思うような条件に変えていくことを目指して働いてきました。オーナー制度も、何人オーナーさんを獲得というお金を目標にすると、やりたいことと違ってしまいます。顔が見えるお付き合いがしたいので、あまりガツガツしませんでした。それも、稼いだ分で生活すればいいっていうところに着地するんですけど」

顔の見える「牡蠣オーナー制度」

震災前からやろうとしていた、顔が見える関係の購入者に提供する「牡蠣のオーナー制度」は2012年の2月から募集開始。現在の登録者数はなんと1500名!メールやブログ、手紙で生育状況をオーナーに報告、希望者には養殖場の作業体験も実施しています。

「ちゃんと聞いてくれる相手がいるということと、こだわりが伝わってお客さんから『美味しい』と言ってもらえることが嬉しい。その繋がりがないと、楽な仕事ではないので続けるのもしんどい。営業職のサラリーマンとしてやっていたときのいい面と一次生産者のいい面の両方の思いのバランスを考えたのがオーナー制度。もともとやりたかった顔が見える関係のオーナー制度をこれからも続けて行けるように、やり方を見直していきたいですね」

美味しい牡蠣を

気仙沼の鶴が浦と大島の亀山間の大島瀬戸は、大川の栄養豊富な水が流れ込む汽水域のため身入りも良くなり、特に内湾寄りは絶好の養殖漁場。そのため育成具合を見ながら、筏の場所を入れ替え、品質を均一にするように気を配ります。

そして牡蠣の温湯(おんとう)処理。筏に吊るした牡蠣を、船の上で75度のお湯に一定時間つけて、牡蠣殻に付着したシュウリ貝や海藻類など牡蠣以外のものを死滅させます。

「親父が他所でやっていたのを見に行ってはじめました。温湯処理をすることで付着物を取り、牡蠣より先にプランクトンを食べてしまうのを防ぎます。そうすることで、牡蠣がぷっくり大きく育つ。付着生物がいたままだと、水揚げしたあとの牡蠣剥きも効率が悪いんです」

「自然相手で、手をかけた分だけいい結果が出るかもわからないし、逆に放っといたものが思わぬ結果を生むかもしれません。自分で決めたことはすぐできるし、答えがないからどんどん変えていける」と、漁業の可能性を語ります。

祖父から親父へ、そして息子へ。変えていくものと、残していくもの。
陸とイカダを結ぶ船の名は<登喜丸>。
祖父・登さんが動力船を作る時に、船に娘の名前の登喜子の一部を入れて<登喜丸>と名付けました。娘と一緒に牡蠣養殖をしている気分だったのだろうな、とその光景が目に浮かびます。

作業場にお邪魔すると、高い天井からブランコが吊るされていました。座席の高さは低く、子どものためのものだとすぐにわかります。ブランコに乗ると、雲間から差し込む光を浴びる牡蠣養殖のイカダが見えたり、隠れたり。「ファンキーな親父です」という、小松さんのお父さん孫のためにと作ったんだそうです

豊かな海や自然の中での島の暮らし。子どもたちと過ごす自由な時間。
「いいとこで仕事してんな~」と思える時間が良かったと、今はしみじみ思う。

守り残していく島の時間を満喫しているのは、小松さんの表情から滲み出ています。

大島で生きる

大島は遠洋船を降りた漁師さんが今は自分の範囲でやられているケースも多く、養殖をしている方も比較的少ない地域です。人口も漁業者の数も減り続けています。外から帰ってきて、もう少しこういう風にやれたらいいとか、こういうことをしてみたいというのがあるのでしょうか?

「海に興味がある人を、ほかから呼び込むということが必要なんだと思います。まったく関係ないことをしていた人たちとの交流人口を増やすところから、本物を育てていく必要があります。まだ漁師として技術を見せてやれる世代を先生にして、漁師の担い手に基礎を学ばせる。漁場は条件を緩和して、3年をめどに、最初は漁師の基礎を教え込んで、最後の1年は後輩を見てもらう。育ってきたら、うちのマンパワーとして協力してもらう。先輩から後輩へ、常に教えている状態だとこっちの負担も減る。それは私の望むところです」

漁業の1020年先を考えると、引退した人たちの養殖区画をもらって規模を大きくしてやっていくか、漁場を遊ばせておいて少しずつ廃れさせていくか。教えられる人がいる間に外から人を受け入れ、地域で漁業をやりたいと思えるように育てたい。状況は地域によって違うけれど、未来に漁業をつなげていくなら、教える人がいなくなってからでは手遅れです。小松さんは、新しい就業者が大島にきてくれることに前向きです。

「最初は人の目も気になるかもしれないけど、まわりは可愛がりますよ。大島にきてくれたらうれしいし、しかも海の仕事。一人で食い切れない海産物が獲れたら、近所に配ってコミュニケーションとればいい。

若い人が来た時にはその人たちが働く仕事と、残りの空いた時間のこともちゃんと考えないといけないなと思います。

私自身、畑仕事もやりたいんですよ。海はいいけど、無理のない範囲で土と海とのバランスを取りつつ、ほかの一次生産者との繋がりの中で食材も分かち合える豊かな暮らし。大島に来てくれる若い人や家族が、この仕事で一生というより、ここ大島で生活できるということに巻き込んでいきたいですね」

海はいのちの源であり、波はいのちの輝き。

緑の真珠・大島は、漁業を通じて島での暮らしを楽しむ漁業の担い手を待っています。

 

 

(文=藤川典良 撮影=Funny!!平井慶祐)

取材は2020年8月に行いました。

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