終わらない90歳の海物語

終わらない90歳の海物語

15歳で初めて海に出てから75年。今でも時々漁船を操り「海の男」になる。

甲谷 強(こうや・つよし)さん。昭和4年生まれ。
中学を卒業してすぐ、底引き網船に乗り、カツオの一本釣り、マグロの延縄、北洋漁業、南米トロール船など数々の漁船の船長を歴任。宮城県の調査船を定年退職したのちに、牡鹿半島にある故郷・桃浦で、刺網やカゴ漁などを営んでいます。

変わらないものを大切に想い、変わりゆくものを吸収し続ける90歳が語る、水産業の過去と今と未来とは。

当時はね、だいぶモテたもんですよ。

昭和30年代、船乗りはだいぶ元気がよくてね。石巻のこの辺りで家を建てるのは漁師だけでしたね。家を建てるのも、お嫁さんをもらうのも苦労しなかったんですよ。

自分が若い時は街中に「浜町」っていう繁華街が3カ所くらいあって賑やかでしたね。今じゃこんなだけどね、桃浦にも旅館が3軒あったんですよ。カツオ漁なんかが始まると、全国から船が金華山沖に集まってね。それがまた人を集めるもんだから、この辺りの暮らしは優雅でしたね。それももう、昔のことだけども。

私は北洋漁業って言ってサケ・マス漁にも行ったし、近海で底引きやら、カツオの一本釣りやら、マグロの延縄(はえなわ)なんかも色々やりましたね。

自慢になるとうまくないんだけどさ。昭和35年に日本が初めてトロール船を造って南米にエビ漁に向かうって時に、その内の1隻の船長にもなったんですよ。九州から1人、日本海から1人、宮城県から私が選ばれましてね。1年半で帰ることになっていたんだけど、最初だからうまくいかなくてね。それで成果が出るまでもう1年残るって言ったんです。結局全部で5年。寄港地で使う英語も知らないから、エービーシーから勉強して、手帳に単語を書いたりしましたね。

日本に帰ってきてからは宮城県から調査指導取締船に乗ってくれと言われて。当時のサラリーマンの月の稼ぎは3万円位じゃなかったかな。船の船長は会社で言うと課長レベルなんだけども、私は昭和40年当時で18万円貰ってたから、まあ良かったよね。

浜も人も変わっていった

遠洋漁業が200海里の規制がかかってきた昭和40年頃から、牡蠣の養殖を始める漁師が増えて、いっぱい作っていっぱい売ろうという競争が始まったんです。
朝から暗くなるまで牡蠣を剥いたんですよ。昔だからろうそくを点けてね。
当然奥さん方は足腰を痛めてしまうわけですよ。そうなると牡蠣漁師でさえ「牡蠣屋には嫁に出さない」って言うようになる。だって働きづめなんだもの。息子がいても「牡蠣漁師にはなるな」って言って、大学に行かせてサラリーマンにしたんです。

この辺の部落にはもともと牡蠣漁師が42人いたんだけども、震災があった2011年時点で19人。もちろん災害のせいっていうのもあるんだけど、それでも半分に減ったことには変わりないね。

私が小学生の時は同級生が14人いたんです。多い時は20人いてね。だけど今は全校で4人だけ。1年生から6年生までで4人ですよ(※2018年3月に荻浜小学校は閉校)。桃浦含めて、この辺りには小学校が7つあったんです。そこの卒業生が近くの浜の中学校に集まるんだけども、昔は1学年に50人いた生徒が、今では全校生徒合わせて一桁。つまりは漁師に若い人がいないってことだね。みんな街に出て会社に就職してしまった。漁業に魅力がなくなったっていうことだろうね。

やっぱり子どもの声がしないのは寂しいんですよ。この浜の未来がなくなってしまうということだから。

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「楽しくないと」そして、もっと先の未来を見なさいな

担い手を外から呼び込もうという取り組みがありますよね。生活費を補助するとか。
私はね、補助金がないと生きていけない、というところが引っかかるんです。ここに来たなら自分で生きていけるように、「覚える」ことが一番大事なんですよ。

もちろん食べていけないことにはどうしようもない。だから最初はお手伝いは必要かもしれないけれど、過保護にしては絶対にダメ。援助だけに頼るってのは、あんまり望みませんね。個人的には、受け入れる側の環境づくりの方が、先だと思うんですよ。子供のころから海の側で育った人がそのまま漁師になるのが理想だけども、外に出ても誇りを持って帰ってくるような環境を用意すること。そのために今いる我々が努力を惜しまないことですね。外から人を呼ぶにしてもまずそれが必要。親が継がせたくないような職業である限り、遅かれ早かれダメなんですよ。

売る方法も人任せではなく、自分で研究して考えながらやる必要があると思ってるんです。自分で考えるから楽しさも感じられる。やっぱり楽しくないと続かないんですよ。

私の知り合いの牡蠣漁師は午前中しか働かない。牡蠣を剥かずに殻付で出しているんだね。「一粒牡蠣」っていうのかなぁ。東京から直接契約の話がくるくらい、いいものを作っているという自負がある。この間なんか、朝の10時半にブラブラしてたから声を掛けたんです。そしたら「そういえば早く終わったっすねー」なんて言ってねぇ。そういう仕事の仕方だって、工夫したらできるんだよね。

このままでいいと思っている人はいないんです。牡蠣も筏の数を制限したら、獲れる数は減ったけれど、大ぶりのものが獲れるようになりました。もちろん量が少なくなったら、一時的に収入が減るから不安なんだけども、みんなで少量でも単価をあげる方法を考えていかないといけないですよね。

漁協とか管理する側も考えてくれているんですよ。
例えばね、「開口」といってナマコを獲ってもいい期間っていうのがあるんだけど、本来10月から始まる所を後ろ倒しして期間を短縮して、時間も8時から12時までって制限したんです。皆が好き勝手獲りだしたら3年でナマコはいなくなる。未来の資源を残しておくこと、これは絶対に大事なことです。

皆で痛みのシェアをする それが大事にするということ

これだけ話してきましたけれど、《大事にする》ってどういうことかってことなんです。目の前の安心のために、補助金に頼ったり、制限なく水揚げしたりするんではなくて、人を育てたり、海を耕したりして、どうしたら長く漁業を守れるか考えなくてはいけないんです。

一度には変えられないし、1人では出来ないことだから、みんなでやりたいね。変えたらそりゃ痛みが伴いますよ。でもそれが長い目で見た時の《大事にする》ってことなんですよ。

去年、東京から漁師になりたいって言う人が来て、初めて弟子が出来たんですよ。私の第1号。ぜひ成功してパイオニアになってもらいたいね。外から来た人が頑張っていたら、次の人も入りやすいでしょう。私もそうやってね、ここで新しい事例を作っていきたいと思っているんです。

90歳を過ぎてもなお、海に向かい、そして次の世代への指導を続ける甲谷さん。

震災後、浜の魅力を伝える「牡鹿漁師学校」の運営にも積極的に携わり、それをきっかけに2名の移住者を誕生させました。フィッシャーマン・ジャパンが運営する1泊2日の漁師学校「TRITON SCHOOL」でも講師を務め、漁師になりたい若者の指導に当たってくれています。

甲谷さんの愛弟子である土橋さんは、51歳のときに東京から移住。甲谷さんから漁業を学び、2018年に准組合員(共同漁業権)の資格を取得しました。現在は甲谷さんとともに小漁を営むほか、小型定置網船でも働いています。

漁師は代々、その家で受け継がれてきたもの。
特に養殖業を営む漁師にとって、よそからやって来たひとを受け入れるという経験は、ひと昔前では想像もつきませんでした。

甲谷さんは言います。
「今までやってきたことを全面的に変えなくちゃいけない。革命ですよ、これは」

震災から10年。
浜の未来を守りたいという甲谷さんの思いが少しずつ実を結び、他の浜にも広がりを見せつつあります。

小さな浜から、大きな革命が起ころうとしているのです。

(文:佐藤睦美 写真:Funny!!平井慶祐)
※2016年に取材した記事を再編集しました。

 

 

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